土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日も徳川秀忠 江戸幕府2代将軍(写真:日本史資料集より)

江戸幕府の将軍に徳川秀忠、駿府に大御所として徳川家康がいるものの、大坂城には豊臣秀頼がおり豊臣秀吉以来の地位を継承していた 豊臣の莫大な財産に脅威を感じた幕府は、豊臣秀吉の追善供養をするために方広寺の建立を提案 そして方広寺が完成すると、その鐘銘に言いがかりをつける→「国 君臣豊楽」と書いてあった鐘銘を、前者には家康の諱を「」と「」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。

徳川家康はこれを不快とし、片桐且元は戦争を避けるために、豊臣秀頼の駿府と江戸への参勤・(豊臣秀頼の母)を江戸詰め(人質)豊臣秀頼坂城を出て他国に移る、の条件を提案するも、が受け入れるわけがなく開戦 大坂冬の陣(1614年)がはじまる

戦が膠着状態になった時、徳川家康がいるあたりの大砲を打ち込むよう指示 驚いたは直ちに講和を要求 大砲におじけづいた淀をみた真田幸村はその姿にがっかりしたという 講和の条件として家康側は大坂城の外堀を埋めることを認めさせるも、外堀ばかりでなく内堀も埋めはじめ、約束を反故にされたとして再開戦する(大坂夏の陣:1615年) 豊臣側は敗れ、豊臣秀頼は自害する。

徳川家康は1616年に没 タイの天ぷらにあたったといわれるが、胃がんが原因の説あり

病で床に伏せっていた家康秀忠を枕元に呼び「わしが死んだら天下はどうなると思うか?」と問いかけた。

秀忠は「乱れると思う」と答えた。

その答えを聞いた家康は満足げに一言「ざっと済みたり」と言ったという。

「ざっと済みたり」の意味は、「そう思っていればよろしい」という意味だと考えられている。
天下が乱れることを覚悟していれば、本当に乱れた際に慌てずに対処できるだろうと家康は考えていたのだろう。

遺体は駿府の南東の久能山に葬られ、家康の遺言で、一周忌を経て日光東照宮(栃木県)に分霊された 社殿を江戸に向かって建てれば、江戸さらに日本全土の守り神になるだろうという考えがあったといわれる。

次回も徳川秀忠 武家諸法度(元和令)など幕藩体制について

12:50教室入室

13:25岩出中1生母よりtel 熱は下がったがまだ37度あるとのことで休み 連日休みなのでテスト対策費用若干引き調整

13:30授業スタート 授業に入る 那賀高3生 日本史 10分間テストテスト範囲(織豊政権~鎖国)やり直し・ポイント解説

13:50粉河高2生入室 授業開始(16:30)まで面談席で自習。

15:00岩出中3生 社会 白プリント2枚目、過去問 夏期講習のはなし 岩出中3生 社会 白プリント2枚 明日社会と言ったのだが、授業後、英語をした方がいいかなと思ったので明日英語も社会もどちらもできるようにしておいて本人の意見をきこうと思う。

16:30粉河高2生 英語 applauseワークLesson4、5(完了、受動態)テスト範囲一通り仕上げた。

那賀高2生 帰り際に明日、生物基礎ではなく数Ⅱがしたいとのことで調整する。

19:25那賀高1生が少し早く授業終了したようなのでお話をしに行った。

19:30授業終了 粉河高2生 来週㈯はCコマのみの授業にすることに。

明日も期末テスト対策 13:30より授業